意味なんてなくて
 ただ毀されていく世界の中で俺がたどりついたのは

 
   016:偶像を描く、それが無意味なことだとわかっていても

 ざわりと肌を撫でる風が湿っぽい。夏の前の腐臭がした。隠し持っていた煙草を取り出すと咥えて火をつける。口腔と喉の浅いあたりへジワリと沁みとおる苦さに吐く息は紫煙に煙った。亜麻色で縫い目も粗い道着に紺袴の出で立ちでの喫煙は目を引く。だからこそ人の寄りつかない裏手で喫んでいるのだ。子供たちの間でまことしやかに噂される怪談の舞台に、道場の裏手は選ばれている。鬱蒼とした空気や木々があるだけで見ていて楽しいこともないので人は寄りつかない。明かりもないから夜半になれば殊更に、大人も子供も寄り付かない。塗りつぶされた闇の中でぼぉと発光する紅朱から目をそらす。喉から沁みていくものは毒でしかない。甘くてしかも常習する。酒と一緒にくくられる悪癖だ。道場の板張りの壁に背を預けて石段へ下ろした尻がそろそろ冷たい。ざわざわとした気配と挨拶をするやり取りが漏れ聞こえてくる。
 卜部はどうも群れるのが苦手だ。目的や必要があれば厭わないが自ら常に群れの中にいようとは思わない。ひっそりと隠れ喫む煙草はいい気晴らしでもある。年かさの仙波からは諫められるし千葉や朝比奈は露骨に嫌な顔をする。そういえば連中が煙草を喫むのは見た記憶がない。いい子ちゃんの集まりかァ、と肩が落ちて短くなった煙草をつっかけで潰し消す。勝手に拝借した履き物だが誰もが使ってよいものなので何とも思わぬ。ピリッと刺激が奔ったように感じて卜部は身震いした。気怠さを覚えるほど暑い日もあるこの時期であるから寒さだとは思わない。新たに出した煙草を口に咥え、ライターの発火部を手で覆う。安ものであるから風が吹けば消えるのだ。火をつけようとした刹那に、がん、と脳天から重い衝撃が奔った。
「――い、って…!」
脳裏と眼の奥で火花が散った。手加減の一切ないそれに文句をつける心算で見上げれば不機嫌な顔の藤堂が立っていた。卜部と同じ道着に紺袴であるのに威圧感が違う。立ち居振る舞いも洗練されていてか細いような上品さと言うよりは獣の気高さだ。
 意志の強さが見える眉筋と通った鼻梁。戦闘力の高さがにじみ出る精悍な顔立ちはそれだけにおさまらず秀麗でさえある。わりあいゆったりと身ごろを取る和装であっても藤堂の体に弛みは見られない。だがその体は卜部のように痩躯なのではなく引き締まっているから細く見えるのだ。必要があればその体の戦闘力の優秀さを見せつけられる。藤堂の基準は厳しいから一線を超えれば温情は見せない。袖の下のような働きかけも効果はなくむしろひどい目に遭う。厳格と寛容が同居しながら混乱もなく一貫している。
 頭がぐらぐらして髪を梳くように撫でれば腫れがある。隠れ煙草の罰は拳骨であったようだ。俺は子供か。不服だが正当性は確実に藤堂にある。説教でもくらうのかと思いながら黙っている卜部の隣へ藤堂がどさりと腰を下ろした。緩く組んだ脚は長く、胡坐とも投げ出しているとも言い難い。見れば藤堂も共用の履き物を履いている。
「他の奴らァいいンすか」
藤堂はこの道場において師範だ。教鞭をとり、指導する立場にある。こんなところにまで沁みた階級に対する感覚で卜部の言葉も変わった。卜部の敬語など侮蔑と揶揄しか含んでいないから怒りしか買わない。それでも直さないのは性質だからだ。誰にでも無差別に首を垂れ額づく真似は卜部には出来ない。どんな高位にいてもくずはくずだし下種もいる。卜部のシャツの釦を千切り飛ばして偉そうに階級を誇示する男はぶん殴った。
「居残りはお前だけだな」
さらりと言った藤堂の言葉には鍛錬を途中で抜けた卜部が終了に気付けなかったことを揶揄している。むっと唇を引き結んで、はァそうですかと返事をした。
「さっきのこれはなんなンすか」
まだ腫れている。押すと痛い。藤堂はしれっとした顔で当然だと言った。
「コドモの罰は尻を叩くかゲンコツと相場が決まっている」
あぁそうかよと卜部は半眼でそっぽを向いた。火のついていない煙草をにじり潰す。
「喫んでいいですかねェ、トウドウセンセイ」
厭味を込めた言葉にも藤堂は重々しく頷いて構わないだろうと言う。こたえていない。卜部は自分ばかりが滑稽であるような気になり、喫んだ煙草の苦さが沁みた。紫煙を吐く前にひょうと空を切る微音がして喫みさしを掻っ攫われた。
 藤堂は卜部の喫みさしを躊躇なく咥えた。深く吸って息を吐く。日常の動作が映える人であると思う。平素であれば見過ごす何気ない動作で、持ち得る魅力を引き出せる性質なのだと思わせる。藤堂の戦闘は血飛沫や臓腑の破片でさえ計算されたように美しい。道場で魅せる藤堂の手本は演舞と言ってよく、学ぶと言うより鑑賞するに近い。清冽な動作と性質でありながら藤堂の動きには色さえ混じる。卜部もその色に負けた性質で、藤堂と体の交渉をもつに至っている。無理強いはしないが強請る。卜部は藤堂ほどなりと性質が違うものを見たことがない。藤堂は理想だ。下劣な言葉も行動もしないし、戦闘も強く立案も優秀。意見は聞くし諭すだけの知能もある。欠けているとすれば情報伝達が未熟なくらいだ。だが藤堂にそうやすやすとほんわかした笑顔などされては競争率が上がるだけなので無視する。傷を負うと判っていても触れたくなる刀身のような藤堂が、卜部はいいと思っている。
 煙草を喫む様でさえ正当だ。卜部のような蓮っ葉ではない。そのくらい百も承知だ。卜部は藤堂のようになりたいとは思わないが、だからこそ藤堂が理想だとも思う。手が届くところにあるのは目標であって理想ではないと思っている。理想は気泡だ。募る感情が泡を肥大させ限界まで膨らませてあるとき、破裂する。それは失望であったり達成してしまった虚脱であったりする。だから卜部は藤堂のすごさは認めてもそれに追いつこうと思う気はない。
「お前は頭がいいな」
びくっと肩を跳ね上げた卜部が隣を見れば、藤堂は灰蒼の双眸だけを卜部の方へ向けていた。卜部の反応を見てから正面へ戻す。街灯という親切のない道場まわりは暗渠のようだ。すぐ足もとの地面が刳れて落ち込んだとしても不思議ではない。
 「皆が私にこうであれああであれと理想を語る。そんな人だとは思わなかったという台詞はよく聞くが、私は当事者である以上判断はできんな。理想は偶像だ。言い訳だ」

偶像も理想も、出来ぬことをするから皆が見るのだと思わないか。

「お前の中にも私と言う偶像はいるのか?」
藤堂の長い指が煙草を抜いた。唇が重なる。びりりと舌先が苦い。だから煙草喫みのキスは嫌なんだと思う。
「あんただって煙草喫むじゃあねぇかよ」
「一応大人だが」
「たいして変わらねェ年の癖に言うぜ」
「理想に焦がれる幼さは私にはないが?」
ぐぅ、と卜部が黙る。良きにつけ悪しきにつけ藤堂が卜部の頂点にいることに間違いはない。所属階級も藤堂の方が上である。本来ならば上官命令として脚を開くことさえ強要されても文句は言えない。
 藤堂が指先で煙草の火を消した。じゅっと焼ける音と臭いがしたが藤堂自身は表情を動かしもしない。怪訝そうな卜部の目線に藤堂はくすりと倦んだ笑みを見せて肩をすくめた。
「痛みには慣れてる」
もっとひどい痛みがあるが試そうか、と藤堂がうそぶいた。火傷で紅く腫れた藤堂の指先が目につく。時が経てば水泡を含んで膨張し、破裂する。その剥けた皮膚の白さや紅い肉を想って卜部は目眩がした。藤堂はどんなに残酷なことでさえも美しさに取り込んでしまう。それはまるで正当性のようだ。事物の正誤を決めるのは倫理ではない。勢いと自信だ。納得できずとも押し切られてそんなものかと妥協を見るのは頻繁だ。
「巧雪、もっと痛い痛みがある。その痛みでお前を刻んだならばどうなるだろうか」
藤堂の爪が卜部の頬を撫でた。それは牙を立てる前戯のように優しく疼く。
 桜色の爪先が衿をなぞっていたかと思えば指がしなやかに躍動して肌蹴させる。あらわになる卜部の胸部に藤堂はひたりと手を這わせる。冷たい。運動の後の発汗は体温を下げる。藤堂の体の冷たさは陶器のようだ。平素に扱う分には毀れにくいのにふとした拍子に毀してしまう気がした。その躊躇が卜部の抵抗を鈍らせる。藤堂の体躯は卜部より余程強靭で柔軟だ。それでもどこか、藤堂は毀れに通じるほころびをもっている。
地面に落ちている煙草が水気を吸って吸い口や紙巻きの色を変える。道場の裏手に吸いがらが散乱しては不味かろうと場違いなことを考える。卜部の思考は現在のしかかる藤堂から逃避している。体の重心がずれて石段から落ちた。冷たく湿った土がじゃりと爪の間に入る。ぷんと果肉の腐ったようなにおいがした。日当たりの悪い裏手で、湿った土を掘れば腐臭に遭うのは当然でもある。黒蒼の艶を帯びる短髪が湿土に塗れる。土くれの粒は思わぬ位置へ入り込んで入浴の際に卜部をたじろがせた。どこから、と思いながらどこまで入り込んでいるかさえも判らない。
 石段から落ちた卜部を追う流れのまま、藤堂は卜部の四肢を抑えこむ。駆動部を抑えるやり方は陰湿だ。それでいてい卜部に許可を求める。卜部は藤堂のそんな矛盾を孕むことさえ容認していることに気付いている。ぐじゃ、と潰れた音がした。落果した実を藤堂の膝が潰したらしい。果肉に包まれていた種の固さに藤堂が眉を寄せた。紺袴に異質な染みが現れる。卜部の道着にはすでに泥水が沁みて徐々に色を変えている。表層はこんなにもたやすいことで変化する。感覚も。感情も。たぶん、想いも。だから藤堂は理想で綺麗で、その感触がいつ消えてしまうかさえも卜部には判らない。次の瞬間には藤堂を汚泥のように扱うかもしれない。
 優しく指が卜部の鎖骨をたどり、胸部を撫でる。腹部を押して脚の間へ入り込む。紺袴の腰紐は疾うに解かれている。

綺麗に見えんなァ汚ねェからだ

「巧雪、お前は私にとっての理想かもしれない」
動じず。蔑まず。敬わず。飄然としてそれは誰に対しても同じ。
「お前はひどく遠いのに、こうして抱くことができるなんて、なんて」

やめろ
やめろやめろやめろ
俺の理想のあんたの基準が、俺みたいな低いもんにあわせちまったら、俺はどうしたらいいんだよ

「巧雪?」
藤堂の声は優しい。それは砂糖のように甘くて蜜のように浸透して。何物も誰も何の文句も付けられない。
「…俺達がすることに、意味なんかァねェよ」

ブリタニアが侵略してきた国土も
隷属する先住民も
威張り散らす侵略者も

くそったれな世界で
くそったれな奴ら

くそったれな俺ごと滅びてしまえばいい

理想も偶像も意味なんかないんだよ、ただの暇つぶしだ

卜部の口の端が吊りあがった。


《了》

だから中断するのはやめなさいって話よね! ぶつ切れになるから!
卜部さんと藤堂さんでもんのすごい甘ったるいらぶらぶ話書いてみたいス。
誤字脱字ありませんように!            2011年6月12日UP

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